驚愕の枝野発言と伊勢神宮参拝
立憲民主党の枝野代表が1月4日の年頭会見で、「私こそが保守本流」と発言したというから驚きだ。
少し長くなるが引用しよう。
枝野氏は会見で「2つの意味でそもそも保守というのは、これまで積み重ねられた歴史や伝統を大事にしながら、それを一気に何か一つの考えで一気に変えてしまおうというやり方はだめだと。これまで積み重ねられたものを大事にしながら、一歩ずつ世の中をよくしていこうという考え方である。例えば憲法というのも、長年先人たちが積み重ねてきた権力を縛るための最低限のものをルール化したもの。それに基づいて権力を行使するという立憲主義もまさにこうした保守主義に立った考え方。こういう保守主義の本来の定義から考えた時に、今の安倍総理こそがむしろ革命的なことをやろうとしていて、これまで積み重ねられた大事な価値を一気に壊してしまっている。それとの対比を私は一つ申し上げている」
続けて「もう一つは、日本で保守を名乗る方の多くが日本の歴史を150年しかないと勘違いしている。明治維新以降、あるいは明治維新の直前くらいからの150年あまりの歴史だけを見て、日本の歴史と伝統だと仰っている。少なくとも文字に残されている歴史だけでも日本には1500年ある。そういう歴史を考えた時に、例えば私ども大事にしている多様性、あるいはお互いさまに支え合うという助け合いの精神、こうした一種リベラルな考え方こそが日本の歴史と伝統である、1500年の歴史を俯瞰すれば、それが常識的な判断だと。この2つの意味で私こそが保守本流だと思っている」と述べている。
枝野氏も言っているが、保守本流とは日本の歴史や文化、伝統、価値観などを保守しようという考え方だ。それは、枝野氏が体現しているかどうかは別として、枝野氏の指摘通りだろう。さらに枝野氏は、日本の歴史は明治維新以降ではなく、文字に残されただけでも1500年の歴史があると指摘している。これも、枝野氏の指摘は正しい。
しかしだ。ここで枝野氏は憲法を持ち出し、改憲に反対する、護憲というものが歴史を守る保守主義だと言わんばかりの驚くべき論理を展開している。悠久の歴史に立脚すると自ら発言したにもかかわらず、本人の思考はまさに戦後の空想的平和主義でしかないのだ。
また、枝野氏は「これまで積み重ねられたものを大事にしながら、一歩ずつ世の中をよくしていこうという考え方」を保守主義と定義しているが、もし、現在議論されている改憲を意識しているのであれば、日本国憲法は制定以来70年以上も改正されていない。まさに、日本は70年以上も漸進主義的に解釈だけを変えてきたのであり、憲法を保守してきた。
保守主義者と言いながら、枝野氏の頭には時間軸がないのかもしれないが、安倍内閣で改憲するにしても、それは急進主義はもちろん、枝野氏の言うような革命的なことでもない。70年余という時間を経てのことなのだ。
いずれにしても、枝野氏が自らを保守主義者と称するのは保守層に取り入りたいがための手段でしかないのだろう。
ちなみに、枝野氏のほか福山幹事長、蓮舫副代表、阿久津幸彦、手塚仁雄、横光克彦各衆院議員、相原久美子、石橋通宏、斎藤嘉隆、芝博一、白眞勲、宮沢由佳各参院議員らが伊勢神宮を参拝したという。
SNSなどでは「なぜ伊勢神宮に立憲民主議員たちが集団で詣でるのか、その意義が理解できないし、 それを党アカウントで発信する見識も疑う。右派支持者取り込み作戦なら、ここだけでなくキリスト教会や寺院にも行かないと、支持者のバランスが取れないし、一宗教団体との密着関係を疑われるだけでしょう」などと批判されている。
保守主義者発言にしろ、伊勢神宮参拝にしろ、保守票の取り込みが狙いなら、あまりにも姑息というほかはない。