知事選は「弔い」ではない
現在、行われている沖縄知事選は、翁長雄志前知事の死去に伴うものだ。しかし、翁長氏が亡くならなくとも任期満了を控えていたため、実施時期は一か月ほど遅れただろうが、選挙自体は行われることになっていた。
さて、沖縄タイムスが先ごろ「沖縄県知事選 県民投票と『撤回』どう対応するかを語れ」と題した社説を掲載した。
「知事選が終わったあと、新しい知事を待ち受けているのは、新基地建設をめぐる埋め立て承認撤回への対応と県民投票である」との書き出しで、相変わらず、米軍普天間飛行場を移設するため、名護市の米軍キャンプ・シュワブ沖に建設する代替飛行場を「新基地」と称すなど、偏向した表現を使っているが、さらにメディアとしてのスタンスを疑いたくなるのが、知事選を翁長氏の弔い合戦にしようという意図が見え隠れしていることだ。
翁長氏は7月27日に埋め立て承認の撤回を表明し、3日後の30日に病状が悪化。8月8日に急逝された。その翁長氏の遺志に基づいたとして、沖縄県が正式に辺野古の埋め立て承認を撤回したのは8月31日だ。
社説では、翁長氏が撤回表明後の翁長氏について「『人がどう言うか、どう評価するか、分からない。でも、知ってほしい。僕は精いっぱいやったんだ。これ以上できない』 亡くなる直前、翁長氏は、樹子夫人にそう語っていたという。撤回という行政処分は、命と引き換えに実現した最後の大仕事だった」と指摘している。
確かに、翁長氏が急逝されたことは残念なことであることだが、果たして、この社説の指摘通り「撤回という行政処分は、命と引き換えに実現した」のだろうか?
もし、撤回するという判断を翁長氏が生前行わなかったら、翁長氏が急逝することはなかったのだろうか。
このような指摘は重箱の隅をつつくものという批判が出るかもしれないし、「命と引き換え」という表現は単なる〝言葉のあや〟と反論があるかもしれない。
しかし、もし辺野古の代替施設が知事選の争点だというのなら、実際、沖縄タイムスはそう主張しているが、そうだとすればなおさら、こんな情緒的な文言を使って読者を惑わしてはいけない。辺野古の代替施設の意味や意義を十分に議論して、それに基づいて判断するよう、県民に求めるのが筋ではないか。
それにも関わらず、「撤回という行政処分は、命と引き換えに実現した」などと表記するのは、知事選を翁長氏の弔い合戦にしたいという、メディアとしてはあるまじき意思が働いているのからだろう。
もし、辺野古の代替施設の建設が争点になるというのなら、辺野古に決定した経緯、背景、建設の目的、それによる県民のメリット、デメリットなどすべての情報を網羅して提供して、選挙戦で判断してもらうというのが地元メディアのあるべき姿だ。それすらできないというのなら、それは新聞ではなく〝機関紙〟のレベルと言わざるを得ない。