立憲・枝野氏の意味不明な〝社会像〟
立憲民主党の枝野代表は28日の衆院本会議で代表質問に立った。菅首相の所信表明演説を「社会像がない」などと批判していたが、枝野氏が示した社会像らしきものは抽象的で言葉遊びに等しく意味不明だ。こうした言葉遊びばかりだから、有権者から支持が得られないのだろう。
枝野氏は代表質問で「『自助』を口にする総理に、声をあげようにもあげられない、こうした実態が見えているのか」と首相批判を展開したが、よほど国民が自立し、まずは自分のことは自分で守るという社会が嫌いのようで、個人にまで政府が介入する社会を目指しているとしか思えない。
そして立憲民主党が目指すべき社会像として「1人1人の命と暮らしを守るために、目先の効率性だけにとらわれず、人を幸せにする経済を目指す。新自由主義にかわる新しい選択肢として、政治が責任をもって支え合いの役割を果たす共生社会の実現を掲げる」と主張した。
「人を幸せにする経済」「共生社会の実現」など、聞こえの良い言葉は並ぶが、抽象的で曖昧な言葉で「目指すべき社会像」というのは、もはや国民を愚弄しているとしか思えない。
そもそも、枝野氏は経済が目的ではないことを理解していないのだろう。経済は目的ではなく手段だ。国民1人1人がどのような社会でどのような暮らし向きをするのか。それを示すのが社会像だ。
枝野氏はこれまで、現在の政府を「新自由主義経済」と位置づけ、効率性重視の経済を行っていると批判しているが、その自分の認識に引きずられているから「人を幸せにする経済」などと意味不明のことを言うのだろう。
また、「共生社会」も聞こえはいいが、「政治が責任をもって支え合いの役割を果たす」と言う意味が、大きな政府を作り、国民生活まで政府が介入する社会を目指しているのだとすれば、時代錯誤的でもある。多くの規制を改革し、企業や国民の創意工夫で新しい社会を作っていく仕組みがなければ、これからの時代には対応できないのだ。
いずれにしても、国民は、国民の暮らしをどのように豊かにし、安全で安心できる社会を作るのか、というところを知りたいのだ。
枝野氏は、新型コロナに影響を受けた現在の状況について、「広く影響を与える思い切った政策が必要」と主張し、具体策として「年収1千万円以下の人への所得税の時限的免除」「困窮者への現金給付」「消費税の時限的減免」を提案した。
これらはいずれも言うのは容易い。しかし、政治は、特に政権は次世代、次々世代のことも考えなければならない。
単なるバラマキのような発想では、将来に禍根を残すことになりかねない。枝野氏はそこをいったいどう考えているのか。
(terracePRESS編集部)