なんでも政権批判でいいのか
世の中には何でもかんでも政権批判に結び付けようとする人たちがいる。一部メディアやテレビのコメンテーターと称する人たちだ。一部の評論家もそうだ。
毎日新聞の1月16日付け朝刊の3面に掲載された「前沢氏が『下品』なら」と題した論説委員氏のコラムもその一つだ。
コラムはZOZOの前沢友作社長が正月に総額1億円のお年玉を配ったことを引き合いに出しながら、政府予算について言及している。
「来年度の政府案では、集まる税金より使うお金が約9.2兆円多い。10月からの消費税増税分を参入しても、だ。赤ちゃんも含む国民全員に、1人当たり約7万3000円の税金をまけている計算」と指摘。
その上で「要は、国民の将来の税金で、政府は毎年毎年『お年玉』を配ってきた。将来を憂い、お年玉を減らそうとすると選挙に負ける。で、ふるまい続けた結果が、1000兆円規模の借金。『国の借金』などというが、『国』は返してくれない。返すのはあくまでも私たち、『民』だ」などと述べている。
確かに、財政再建は必要だ。だからと言って国債をお年玉などになぞらえ、読者に誤解を与えるのはいかがだろうか。
確かに、2018年度末の長期債務残高は915兆円で、コラムの指摘のように1000億円規模と言ってよい。
コラム氏もご存知だと思うが、国債は特例国債と建設国債に大別できるが、915兆円のうち建設国債は273兆円を占めている。道路やダム、堤防などの社会インフラは、今は子供であっても、将来、そのインフラの恩恵を享受するわけだから、長期債務にしても何も問題はない。
また、現在の日本にとって喫緊の課題は災害対策であることは誰でも認めるところで、その整備をもし国債で賄うとしても、どこが問題なのだろうか。それを「お年玉を配る」などとさもバラマキをやっているような印象を与え、政権批判を展開しているのだ。
あえて言えば、問題になるのが特例国債、いわゆる赤字国債だ。これはインフラ整備などではなく、社会保障などに充当されている。その是非は、さまざまな議論があるところだが、コラム氏があえて言及しない部分がある。
繰り返しになるが、筆者は国の債務をお年玉などと称している。長期債務をお年玉と言うのなら、それはお年玉といえども、返済はしなければならない。だから、コラムは「返すのはあくまで私たち、『民』だ」と指摘している訳だ。
父親が子供に毎年、お年玉を渡し続け、その額が100万円となった。子供はその100万円を父親に返さなければならない、ということだ。
しかし、この例は、子供が単に父親に借金を返すということではなく、この一家の中で父子の債権債務は相殺されると考えるべきだ。
コラムにある「私たち『民』」の民はこの場合、父親でもあり、そして子供でもある。日本の国債は、ほとんどが国内で消化される内国債で、日本国民が貸して、日本国民が借りている。債務者、債権者とも国民だ。だから、もし国民1人当たり100万円の借金があるなら、国民1人当たり100万円の貸付金があるということなのだ。
このコラムのように長期債務問題を家庭になぞらえて説明するケースを時折見かけるが、国の財政と家庭では根本的に違う。もちろん、そうであっても財政再建の必要性があることは間違いないのだが、さも政府与党の方針が常に国民にとってマイナスになるように報じるメディアなどがある限り、真っ当な議論は成立しない。不幸なのは読者であり、国民だ。
(terracePRESS編集部)