terrace PRESS

CATEGORY政治

2020.09.10

国民の自立は必要ない? 理解不能の枝野発言

立憲民主、国民民主両党などによる合流新党の代表選に立候補した立憲民主の枝野代表が、日本記者クラブ主催の討論会で「政治家が自助と言ってはいけない。責任放棄だ」と述べたという。これは自民党総裁選に出馬した菅義偉官房長官が「国の基本は自助・共助・公助だ」などと訴えていることを批判したものだ。どうやら枝野氏は、政治家としての知識も理解力もないようだ。

 

「自助、共助、公助」は災害対策や社会保障、地域づくりなどさまざまな分野で使われている言葉だ。

その「自助、共助、公助」について菅氏は記者会見で「国の基本は自助・共助・公助であると私は思っている。自分のできる事はまず自分でやる。そして地域や自治体が助けあう、そのうえで政府が責任をもって対応する。当然のことではあるが、このような国の在り方を目指すには国民の皆様から信頼をされ続ける政府でなければならないと思っている」と述べている。

 

菅氏の発言は至極当然のことなのだが、まず重要なことは「自助」とは何か、つまり「自立した国民一人一人が、まずは自分の生活を営むことができる」との意味を理解することだ。

そして菅氏の発言の意味は「国民が自立し、住民らが共に助け合い、政府がセーフティーネットや支援を用意する社会を作る」ということなのだ。自由で民主的な国家では、程度の違いはあれ、当たり前の国家像だ。そうした国では、国民が自立できる社会を作り、そして国民支援のための事業や制度を構築することが政治家の役割なのだ。

 

ところが枝野氏は「政治家が自助と言ってはいけない。政治家の責任放棄だと思っている。政治の役割は公助だ。この公助を最後にもってくるとか、自助と並べること自体が私たちとは明確に政治姿勢が違う」と述べているのだ。

「政治家が自助と言ってはいけない」と発言するのは驚きだ。政治家にとって最も重要なことは、国民が自立し、生活を営む社会を作ることではないか。それが重要な政治家の責任だ。

 

残念なことだが、枝野氏には「自助」、つまり自立した国民が一人一人の生活をするという発想がないのだろう。何が何でも国が支援し、国民が自立すらできない社会が理想と考えているに違いないのだ。そして、そのような社会はもはや自由で民主的な社会とは呼ぶことすらできない共産主義国家のようなものだ。

 

枝野氏は、自助と公助を並べること自体を批判しているが、自助も公助も並ばなければいけないのだ。

そんなことすら理解できないのであれば、首相はもちろん、与党に対峙しようという野党の代表すら務まらないだろう。

 

(terracePRESS編集部)

この記事をシェアする

関連タグ

人気関連記事

投稿種別CATEGORY

  • 政治
    政治
  • マスコミ
    マスコミ
  • 国内
    国内
  • 社会
    社会
  • 事故・事件
    事件・事故
  • 経済
    経済
  • 動画
    動画
  • 法律
    法律
  • 教育
    教育
  • 歴史・文化
    歴史・文化
  • 国際・海外
    国際・海外
  • 特集
    特集
  • インタビュー
    インタビュー
  • その他
    その他

注目タグTAGS